八木紀一郎

1.学会設立にとりかかるまで

 進化経済学会は1997年の3月28日に誕生したが、学会設立のよびかけが発されたのはその前年の3月末であった。私はこの創設準備にかかわり、また瀬地山敏会員(現フェロウ*)が初代会長をつとめていたあいだ(1997年4月~2003年3月)、京都大学にあった事務局を吉田和男理事とともに担当した。

 1990年代は、経済学のさまざまな新しい動きが成果を生み出し始めていた時期であった。一方では、個人の合理的行動と市場均衡を核にした新古典派理論が、限定合理性や情報の不完全性・非対称性、またゲーム理論の導入によって再編成を余儀なくされていた。経済思想の面では、ケインズ、シュンペーター、ハイエクなどの再評価が進んだ。他方では、ソ連圏の共産主義計画経済が解体し、共産党支配を残した中国なども市場経済化に進んだことから、従来の資本主義対社会主義という体制比較の構図が無効になった。企業組織にせよ、経済システムにせよ、より精細な分析が求められるようになっていた。そのなかで、比較制度分析や新制度主義、ポストケインジアン、分析的マルクス主義、レギュラシオン理論、実験経済学というような多様な動きが出ていた。

 私自身は1989年秋から在外研究の機会を得て、英国で進化的政治経済学会(EAEPE)の初回ケスウィック大会、米国で国際シュンペーター学会(ISS)のアーリーハウス大会に参加することができ、日本でもそのような、異端派を統合して新しい動きを生み出すフォーラムとなる学会が欲しいと考えていた。しかし、実際に新学会の創設に向けて動き出したのは、京都大学で同僚であった瀬地山さんと吉田さんも経済学の現状に不満を抱いていて新しい学会を創りたいと考えていることを知った時である。総合人間学部にいた山下清さん(故人)、東南アジア研究センターにいた池本幸生さんも同志に加わった。吉田さんの提案で、7万円ぐらいを出し合って設立作業のための資金としたが、他にも出資した人がいたかもしれない。これは学会が軌道にのったあと返済された。大蔵官僚であった吉田さんはさすが資金管理がうまいと感心した。

 「進化経済学 evolutionary economics」という学会名称を最初に提案したのは、瀬地山さんだった。瀬地山さんは当時京都大学の副学長で理系の動向もよく知っていて、進化生物学や生態学が経済学などの社会科学・人文科学と交錯する成果を生み出していることに注目していた。私は、はじめは「制度経済学会」のような名称を考えていたが、欧米の制度派経済学者たちが自分たちの立場を「進化的」と称していることを思い出して、それも悪くないと思った。はじめは、私でさえも、この名称には違和感があった。それでも、「進化経済学」「進化経済学」と頭の中で何度もくりかえしながら一晩寝て翌朝目覚めたら、前夜にあった違和感はみごとに消えてしまっていた。「進化」は情報科学の領域でも有益な視点になっているし、また学会の創設後におこった複雑系ブームにも適合的な視点でもあった。この学会の創設のよびかけが、呼びかけた側が予想した以上の反響をよんだのも、おそらく、この名称の斬新さによるのではないだろうか。

 「設立準備委員会」名称で発された「進化経済学会入会への呼びかけ」の文章も、瀬地山・吉田・八木の3人で書いたが、呼びかけ人としては、3人のほかに池上惇、今井賢一、塩沢由典、鈴村興太郎、根岸隆、本間正明の6氏も加わっている。後に、弘岡正明、有賀裕二、黒川和美、室田武の4氏も加わった。学会設立の直前には、塩野谷祐一、杉浦克己の両氏の名前も設立準備委員のリストに加えられている。学会の設立「呼びかけ」に賛同して、学会の発起人に参加してくれた人もそうだが、研究領域や理論傾向の面からも、幅広い人的構成になっている。これは、私よりも瀬地山さんと吉田さんの人的ネットワークによることが大きい。新聞がとりあげてくれたり、有斐閣の『書斎の窓』でとりあげられたりしたことの効果もあったかもしれない。都留重人さんがマルクスも自分も制度派経済学者だとした(Institutional Economics Revisited, 1993)こともあって、マルクス派の経済学者にも、制度経済学は受け入れやすくなっていた。

 呼びかけ文が京大グループの手を離れると、すぐに反応が広がった、当時大阪市大にいた塩沢由典さんからは、ファクシミリで参加希望者のリストが送られてきた。東大駒場の杉浦克己さんたちの反応も早かった。山田鋭夫さんを中心にしたレギュラシオニストも参加してくれた。発起人リストはみるみる延びていった。

2.発起人会と設立大会

 第1回の発起人会は1996年の5月25日に京大楽友会館で行われ、参会者は60人近くになった。学会発起人に加わりたいという人は、すでに200人近くになっていた。この発起人会は、設立準備委員会を正式に承認し、翌春3月28-29日に創立大会を開催するまでのスケジュールを決定した。

 第2回の発起人会は同年9月21日に、同じく京大楽友会館で開催され、新学会の会則案を一部修正のうえ承認した。また、創立大会の実行委員会を立ち上げた。また、会の第2部として「進化経済学とはなにか? それぞれのイメージ」と題し、6人のパネリストによる学術パネルを設けた。そこでのプレゼンテーションは、創立大会時に小冊子『進化経済学のすすめ』として参会者に配布されたが、後に有斐閣から刊行した学会最初の刊行書である『進化経済学とは何か』(1998年)に発展している。

 設立大会は1997年の3月28-29日に京大会館で「Evolutionary Economics の課題と方法」と題して開催され、200人収容のホールに椅子を追加しても立ち見の人が出るほどの盛況であった。おそらく2日間で300人前後の参加者があったであろう。28日の午前中に、池上高志、内井惣七、岡田章、佐倉統、長谷川真理子の5氏を迎えた学際ディスカッション「進化について」があり、午後に設立総会がもたれた。3月15日に発起人会参加者数368名であったのが、大会前日までの入会者、大会初日の受付を含めて、会員数480名に達したと報告された。大会2日目の入会者を含むと490名である。お付き合いでの参加者もいたと思われるが、1997年10月に最初に学会名簿を作成・配布した時の会員数は523名であった。会員数は学会設立後1・2年頃の550名前後がピークで、その後やや減少して、現在にいたるまで400名台で推移している。会員の世代交代もあるだろうが、設立時に盛りあがった期待に学会が十分に応えられなかったのではないかと思われ、自分の非力さを感じざるをえない。

 この学会の創設時に留意していたのは、学会運営に学際性・国際性・現代性を備えることであった。学際性というのは、「進化」というタームに象徴されるように、生物学や情報工学、人工進化や複雑系に拡がる文理横断性を持たせることである。当初は進化生物学者の長谷川真理子さんに理事になってもらったり、京大の生物学研究者と連携を追求したりしたが、十分な成果をあげられなかった。残念なことは、進化経済学への協力を約してくれていた京大の生態学研究センターのグループが2000年春にカリフォルニア湾で遭難してしまい、生態学との交流が実現できなかったことである。進化学会の中では、生物学よりもむしろ情報学の研究者による「人工進化」や複雑系の研究との交流の方が進んだように思われる。

 国際性をもつということは、学会が何にせよ閉鎖的な同好会的な集団に堕すことを避けるために不可欠な要素である。海外からの刺激を受け、国際水準の問題意識と学術水準を維持することが新たに生まれる学会の要件の一つと考えられるからである。1997年春の設立大会には、米国コロンビア大学のリチャード・ネルソンさんとドイツの進化経済学の理論家ウルリッヒ・ヴィットさんに来てもらった。その直前には欧州制度派のリーダー(EAEPEの総務)であるジェフ・ホジソンさんを科研費で招へいしたが、彼が日本各地の大学で講演をしたことは新学会設立の計画をアピールするためにも効果があった。私は、当初からこの学会に機関誌をもたせる場合には、国際英文誌にしたいと考えていた。研究とその公表を国際的に交流可能な形で保証することが新しい学会の要件になると思っていたからである。

 第3の現代性というのは、具体的には当時ようやくその意義が一般に認識されるようになっていたインターネットを活用することであった。学会は充実したホームページをもち、メーリングリストで会員と不断に交流しなければならないだろう。これは、江頭進会員などの、この領域に知識と技能をもつ会員の尽力によって可能になった。私は、設立大会初日夕の懇親会から帰宅するとすぐに、進化経済学会誕生のニュースを学会のMLに興奮しながら配信した。翌朝有賀裕二さんに出会うと、早速のニュース配信に感激しましたと言われた。現代化といっても、実際は、郵便と手書き文書に頼った過去の学会事務作業を減らして、電子機器とインターネットを活用することが学会事務の簡素化と迅速化のために必要だっただけのことである。

 学会のサイトに会則その他の規定を保存するとともに、年2回作成するニューズレターには、学会総会・理事会の記録を掲載し、それを学会のホームページにアップロードし、会員に対する説明責任を果たそうとした。(ただし当時は、まだ個人情報保護の配慮は不十分であった。)しかし、その後学会の財政が窮屈になったため、インターネットによる広報活動は会員のボランティア奉仕に依存したままに放置された。そのため、いたずら者によるホームページ荒らしの被害にあうことまで起きた。現在、ホームページの再度の本格的な構築がはかられているとのことであるが、ぜひセキュリティと利便性、そして国際性をもった学会の「窓」にしていただきたい。

3.瀬地山会長時代(1997~2003)

 設立時の学会役員(第1期)は学会設立準備委員会から提案され、学会会則とともに、設立総会で承認された。最初の役員(第2期)選挙は2年後、学会運営が軌道にのった時期におこなうことになった。初代会長は瀬地山さんで、吉田さんと私が事務局を担当することになった。瀬地山さんは2000年春からは選挙によって選ばれた会長になった。2003年4月からの第3期は、当時大阪市立大学の塩沢由典さんが会長になり、学会事務も学会の英文国際誌Evolutionary and Institutional Economics Review の印刷を引き受けた国際文献印刷に委託することになった。私は、副会長に選ばれ、また上記英文誌の編集長になった。

 瀬地山会長時代に、年次大会とオータム・コンファレンス、随時開催の専門部会という研究体制のスタイルが固まった。

 年次大会は、第2回東京(駒場)大会(1998年3月28-29日、東京大学駒場キャンパス、テーマ:「エヴォリューショナリィ・エコノミックスと経済学のフロンティア」)、第3回大阪大会(1999年3月26-27日、大阪市立大学学術情報総合センター、テーマ:「制度・知識の進化と経済学」)、第4回東京(駿河台)大会(2000年3月25-26日、中央大学駿河台記念館、テーマ:「21世紀の学融合と進化経済学」)、第5回福岡大会(2001年3月30-31日、九州産業大学経済学部、テーマ:「制度・進化と経済学の諸領域」)、第6回大阪(千里山)大会(2002年3月29-30日、関西大学経済学部、テーマ:「知識・組織・社会のイノべーションと進化経済学」)、第7回東京(生田)大会(2003年3月29-30日、専修大学生田校舎、テーマ「グローバル資本主義への進化経済学的アプローチ」)と順調に開催された。オータム・コンファレンスは、年次大会の前年秋の土曜に大会開催校が準備して開催し、それに合わせて学会の理事が開かれた。1997年9月20日東京大学駒場キャンパス、1998年9月12日大阪市立大学文化交流センター、1999年9月18日中央大学駿河台記念館、2000年9月9-10日初日テーマ「進化経済学の可能性を探る」第2日『ゲネシス進化経済学 方法としての進化』合評討論会、九州産業大学1号館、2001年9月18日関西大学経済学部、2002年9月14日テーマ「資本主義との共存可能性」専修大学生田校舎である。特別なテーマを掲げた以外は、その年度の大会テーマにそったものであった。第2回の東京大会は、杉浦克己さんが山脇直司さんの補助をうけつつ組織したもので、オータム・コンファレンスでは塩野谷祐一さんも話された。杉浦さんが2001年夏に亡くなられたのはショックだった。塩野谷さんも数年前に亡くなられた。こうして学会の過去をたどると、いまは亡き多くの方々の厚意と奉仕に支えられていたことに気づき、あらためて感謝せざるをえない。

 専門部会としては、九州地方部会(岡村東洋光会員代表)、非線形問題研究部会(有賀裕二代表)が学会創設とともに活動を開始し、現代日本の経済制度研究部会(山田鋭夫代表)、制度の政治経済学部会(清水耕一さんと八木が同代表)、イノベーション研究部会(弘岡正明・瀬地山敏共同代表)が続いた。また、仮想空間で市場シミュレーションをおこなって市場の作動を研究するU-Martプロジェクトも2000年には開始された。

 この時期には国際交流も活発で、米国の進化経済学会(AFEE)、欧州進化的政治経済学会、国際シュンペーター学会、ロシア進化経済学センター、フランスのレギュラシオニストたち、韓国の技術革新研究グループ、中国制度経済学研討会などと交流をおこない、さらに複雑系国際会議、移行経済についての国際会議を共催した。

4.Evolutionary and Institutional Economics Review

 この時期の学会の最大の未解決課題は、出版問題であった。というのは、「進化経済学」という新しいビジョンを掲げて出発したからには、会員投稿・査読による閉鎖的な機関誌は適当ではないと考え、学会誌の創刊を控えていたからである。当初は、「進化経済学」の領域・方法を示す出版をおこなうことにして、先に言及した『進化経済学とは何か』(有斐閣、1998年)に続いて、シュプリンガー東京から『ゲネシス進化経済学』のシリーズとして『方法としての進化』(2000年)、『社会経済体制の移行と進化』(2003年)の2冊を刊行・配布し、また数点の英文書の出版助成をおこなった。しかし、出版物の定期的な刊行・配布はできなかったので、事務局をあずかる私としては会員の不満がいつか爆発するのではないかと気が気ではなかった。そのようなこともあって、2000年春から定期刊行物の編集・刊行についての討議が開始され、2001年9月の理事会で、第3期がはじまる2004年までに国際学術誌を創刊するための準備に入ることが了承された。英文国際誌の形態を選んだことについては、文科省の学術国際化の方針からいって、実績ができれば刊行助成が得られる可能性があることも私の頭の中にあった。

 当初は名のとおった出版社からの刊行を考えたが、経費の見積もりが予算を超過し、維持不可能と思われたため、学会の通常事務委託とあわせて国際文献印刷社に印刷・配布を委託することになった。Evolutionary and Institutional Economics Review (EIER)が発刊されたのは、2004年の11月であった。この誌名をホジソンさんに伝えると、「いい名前をつけたな」と誉めてくれて、歓迎の文章も書いてくれた。実は彼自身が、同趣旨の学術誌 Journal of Institutional Economics(2005年6月発刊)の準備に携わっていたのである。有賀さんと私の共通の友人であるベルトラム・シェフォールトさんにこの雑誌の名前を伝えると、「EIERというのはドイツ語で変な意味(卵の複数形)になるぞ」と書いてきた。この指摘は笑って無視した。

 この創刊号には、ホジソンさんのほか、塩沢さん、吉田雅明さん、榊俊吾さん、依田高典さん、ラメッシュ・チャンドラさん、エスベン・スロス・アナーセンさんが寄稿している。学会内の執筆者だけでない創刊号になって嬉しかった。アナーセンさんの論文は、進化経済学会の2004年福井県立大学大会がらみで京都に招聘した際に、彼が討議用に用意していた原稿を無理をいって回してもらったものである。この依頼に対して彼がしばし躊躇したのは、他の定評のある雑誌への投稿を考えていたからかもしれない。それらはともかく、この創刊号を手にとったとき、私はほぼ10年間の学会の創設段階がようやく終わったと感じた。

 実際にはこの英文誌を維持することは、掲載原稿の確保面からも、経費面からも、かなりの負担を要する事業だった。私は2007年春に進化経済学会の会長に就任した際に、EIER誌の編集長の職務を有賀さんに引き継いでもらったせいで、その労苦から免れた。同誌は、それ以来、現在の同誌Springer Journal 版にいたるまで、Editor-in-ChiefあるいはManaging Editorとしての有賀さんに万端にわたって支えられている。

 同誌の第15巻1号(2018年5月)に私は、”Road to evolutionary and institutional economics in Japan – A personal memoire of the decade of founding the Japan Association for Evolutionary Economics”という回想文を掲載してもらっている。本稿とかさなる部分もあるが、興味のある向きはそれもご一読いただければ幸いである。

            (2021年12月26日)


進化経済学(会)について:2015年度第20回大会東京大会インタビュー(日本語字幕)


INTERVIEW@20th Annual CONFERENCE in TOKYO University (ENGLISH)